ロベルト・シューマンの挫折 作曲家への道へ|初めての高級ピアノ

神経性麻痺であきらめざるを得なかったピアニストとしての道

今回は、グロトリアンを愛したクララ・シューマンの夫であり、ドイツ・ロマン派を代表する、かの有名な作曲家ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年 - 1856年)について、あまり皆さんが知らないことについてお話しします。
動かなくなった右手

シューマンはピアニストを目指していましたが、すでに20歳(1830年)の頃に、右手の進行性麻痺により、右手の中指と薬指を始め、「物を握ったり持ったり」することも不自由になってしまい、ピアノ演奏も上手く引けなくなってしまったそうです。また、目の病気も患い、失明する恐怖にも襲われ、1832年に作曲で身を立てる意志を固めました。
  
幸せな時代

ピアニストとしての道を断たれたシューマンですが、作曲家として数多くの作品を残しました。 1835年に出会ったクララと結婚する前の1840年3月から7月までの間に、シューマンは音楽史に残る5つの歌曲集を作曲しました。 

【代表作】
二つの『リーダークライス』(作品24及び作品39)、『ミルテの花』(作品25)、『女の愛と生涯』(作品42)、そして『詩人の恋』(作品48)です。 これらを含め、この年に120曲以上の歌曲、重唱曲が作曲されています。これはシューマンが生涯に残した歌曲の大半を超えるもので、1840年は「歌曲の年」と呼ばれています。 クララとの出会いが、シューマンの優れた能力を発揮させたのでしょうね。シューマンとクララの間には、8人の子供が生まれており、それだけ愛し合っていたということも計り知れます。 
 
シューマンの最期

ロベルト・シューマンの死因については諸説ありますが、数々の名作を残しながらも、彼は神経障害を発症し、1854年にライン川に飛び込み、自殺未遂を起こします。この時、クララとの「愛の証」である指輪を外してから身を投じたそうです。 

シューマンは自分では分別を保てず、「このままでは妻や子供たちを傷つける恐れがある」として自ら精神病院に入いるよう身の回りの整理を始めました。 次第に発音が困難になり、感覚の鈍磨が聴覚、味覚、嗅覚にまで広がり、次第に衰弱していきました。 

1856年7月23日に危急を知らせる電報を受け取ったクララは7月27日にシューマンの住むエンデニヒに着き、2年ぶりにシューマンと再会しました。 

【クララの手記】
「それは夕方6時から7時のころのことでした。彼は私を認めて微笑み、非常な努力を払って―もうその頃、彼は四肢の自由がきかなくなっていました―彼の腕を私に回しました。私はそれを決して忘れません。世界中の宝を持ってしても、この抱擁にはかえられないでしょう」 とクララはのちに語っています。
シューマンが最愛の妻クララに残した最後の言葉

クララがシューマンのもとを訪れた 翌28日、シューマンの手足は痙攣が続き、クララはシューマンにワインを飲ませました。 ワインの一部がクララの手の上にこぼれると、シューマンは嬉しそうにクララの指をなめ、最後に「おまえ、……ぼくは知っているよ……」という言葉を残して 1856年7月29日午後4時、46歳の生涯を閉じました。 

シューマンも先日紹介させていただいた「ゴッホ」などのように精神神経症に侵され、非業の死を遂げています。何か通ずるものがあるのでしょうか。 私は精神疾患など患ったまま死にたくありませんが、ロベルトとクララのような思いやりを持った関係を持ち、このような最期を迎えたいと思っています。 



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